カンボジア:パイリンの地雷原で暮らす人々

 カンボジアは熱帯雨林がつくりだす肥沃な大地とメコン川による豊富な水資源に恵まれた農業国であり、農産業はGDP(国内総生産)の30%を占める。しかし、そんな大地は長い間人が立ち入ることを拒んできた。しかも、人の手によって。

 インドシナ戦争やベトナム戦争など近隣諸国の戦禍に巻き込まれ、1975年から1979年までポル・ポト率いるクメール・ルージュが実権を握ると、170万人とも推定される国民が虐殺された。

 その間国土の至る所に地雷が敷設され、大量の不発弾が地中に突き刺さった。そうしてカンボジアは世界で最も地雷・不発弾に汚染された国の一つとなり、現在も社会経済や国民の生活に深刻な影響を与え続けている。

 カンボジアの西側、タイとの国境に隣接するパイリン州はクメール・ルージュの最後の砦であり、最も地雷被害が深刻な地域の一つだ。それでも1997年初頭、クメール・ルージュが政府に統合され戦闘が終結すると、避難していた村人が戻り、出稼ぎ者も多くやってきた。しかし、放置した農地はすでに他人が耕作していることが多く、残された未開拓地か地雷原を耕作するしかなかった。

 プロウ(46歳)は2002年にバッタンバン州からパイリン州に移ってきた。彼は100人の兵士を従えた元クメール・ルージュのリーダーだったキーから土地を借り、農業を営んでいる。

 プロウはパイリンに来るまで、この地にこんなにも地雷が敷設されていることを知らなかったという。それでも借金を返済するために危険な畑に入って行かざるをえない。昨年、彼は農作業中に4つの地雷を発見し、枯れ木で覆って火をつけ、自分で爆破処理をした。プロウの畑の周囲にはNGOが立てた地雷警戒標識が立っている。

 コーン(46歳)は1996年、田んぼで作業中に地雷で左足を失った。その頃コーンは政府軍に所属していたが、それにより軍を解雇された。月15ドルの支援を国から受けていたが、3ヶ月前に支援は突然打ち切られた。今は生活のため妻と6人の子供たちが学校に行かずに畑仕事をしている。

 パイリンとバッタンバンを結ぶ国道57号線は長い間政府軍とクメール・ルージュの激しい戦闘が繰り広げられたため、両軍によりあらゆる種類の地雷が敷設された。一方、NGOなどの努力により急速に地雷原が縮小してきた地域でもある。

 1997年以降、カンボジアのトウモロコシの作付面積は2倍に増加したが、ここパイリンでもトウモロコシの生産が急速に伸びている。それらはプノンペンや飼料用としてタイやベトナムに輸出されている。特に乾季になると、多くの農家や企業が乾燥トウモロコシの生産で忙しくなるため、国道57号線沿いは人々の活気にあふれる。

 地面に広げられたトウモロコシはまるで黄金に輝く絨毯のようだ。(2006年)

その他の写真→

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です